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大切な皇女を神に仕えさせたのに始まる斎王。

斎王代「御禊の儀」

▲斎王代「御禊の儀」

平安時代初期の810(弘仁元)年、嵯峨天皇は兄の平城上皇を擁する勢力と対立し、賀茂大社に願をかけて平定しました。そして、成就のお礼として、未婚の皇女を斎王(賀茂斎院)として献じました。
大切な皇女を巫女として奉仕させることで、上賀茂神社と下鴨神社を、伊勢神宮に次ぐ特別な国の守護神として定めたと言えます。

※伊勢神宮では3世紀末の創祀より、朝廷から未婚の女性を斎王として遣わす制度があり、嵯峨天皇はそれに倣ったと思われます。嵐山・嵯峨野の野宮神社にその伝統が受け継がれています。

「延喜式」の斎院司式などによれば、斎王は新しい天皇が即位するごとに、未婚の内親王か女王の中から占いによって、決められます。
斎王に決まった女性は、賀茂川で初度の御禊(ごけい)をして、宮中の初斎院で2年ほど潔斎生活を送り、賀茂川で再び御禊をして、紫野斎院(現在の京都市北区の七野社周辺)に入ります。そのため、斎院とも呼ばれます。

斎王は、毎月の忌火竃神(いみびかまどがみ)祭や、6月の晦日の禊、11月の相嘗祭、12月の晦日の禊などを行い、日頃から忌詞(いみことば)を用いないよう気をつけ、不浄を避けた暮らしをします。
そして、賀茂祭の当日、斎院を出て勅使の行列に加わり、下鴨神社と上賀茂神社の「社頭の儀」に参加します。もし、遅くなったときは、上賀茂神社の境内にある神館(かんだち)に泊って、翌日斎院へ帰りました。これを「還立(かえりだち)」といいました。

こうしてみると、斎王は潔白で堅苦しい生活を送ったように見えますが、実際には神事ばかり行っていたのではなく、斎院には男女問わず人が集まって、文学サロンのようになっていました。

さて、斎王に選ばれるくらいなので、美人で頭も性格もよい女性が多かったでしょう。しかし、結婚が許されないとなれば、小説の格好のモデルになります。『伊勢物語』『大和物語』『栄華物語』『増鏡』などには、斎王が関係する悲恋が描かれ、和歌や物語も数多くつくられました。

しかし、斎院を維持するにはかなりの出費が必要になるため、鎌倉初期に、後鳥羽院の皇女・礼子(いやこ)内親王を最後に、35人で途絶しました。

高い人気を誇ったヒロインを、祭りのために復活!

斎王制度がなくなると、多くの人々が惜しみました。斎王は、祭りの花形であったからです。
そこで、江戸時代になると、斎王を再現しようという運動も出てきました。しかし、そのときは成功しませんでした。そして、1956(昭和31)年になって、ようやく復活しました。その際、斎王の代わりという意味で「斎王代」と呼ばれることになりました。

斎王代は、かつての斎院御禊にあたる「御禊の儀」を、5月上旬の吉日に行います。場所は、上賀茂神社と下鴨神社の境内を流れる小川を1年交代で用います。

御禊の日、斎王代は十二単の上に、白くて薄い小忌衣(おみごろも)を羽織り、腰輿(およよ/ようよ)と呼ばれる輿(こし)に乗ります。「およよ」という名前の響きが、何とも可愛らしいです。
その周りを女別当(にょべっとう)や内侍(ないし)などの女官、女童(めのわらわ)が囲みます。

禊場に着くと、宮主(みやじ/神職)が中臣祓(なかとみのはらえ)を奏し、斎王代は清流に手をひたして、心身を浄めます。そして、祓串(はらえぐし)で胸をなでて、それに息を吹きかけて心身の穢れをうつし、川に流します。これで浄められたことになります。

新緑の中、王朝装束で身を包んだ斎王代が川べりで禊をする姿は、京都の祭りの中でもとくに美しいもののひとつでしょう。

5月15日の葵祭・路頭の儀では、斎王代は「斎王代・女人列」という一団の中心として、行列に加わります。そして、お付きの女性たちとともに、京都御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社まで約8kmの道のりを輿に乗って進みます。優雅に見えますが、重さ10kg以上もある十二単を着て、狭い輿に乗るのは、なかなか大変です。

斎王代は、京都在住の未婚女性の中から選ばれます。1956(昭和31)年の初代・伊藤文子さんは色白で下ぶくれの、まさに「百人一首」に描かれているような典型的な平安朝美人でした。
時代とともに必ずしも下ぶくれではなくなりましたが、選りすぐりの京美人であることは確かです。葵祭の花形といえば、やはり斎王代でしょう。

葵祭、斎王代・女人列

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