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滝口入道と横笛の悲恋伝説

滝口寺

▲滝口寺

滝口寺は、京都嵯峨野の小さな山寺です。愛宕街道近くを、檀林寺の前から祇王寺へ向かう横道へ入って、さらにちょっと石段を登ったところにあります。

その創建年代は古く、平安時代末期に遡ります。
浄土宗の開祖・法然の弟子に良鎮という僧がいました。良鎮は往生院というお寺を創始し、往生院は念仏道場として栄え、周囲には塔頭(子院)がいくつもありました。

そのひとつ三宝院(あるいは三宝寺)がありました。これが、今日の滝口寺です。

このお寺には、ある悲恋の伝説が残されています。平安時代末期、御所の警護にあたった滝口の武士、斉藤時頼と、平清盛の二女・徳子(のちの建礼門院)付きの女官、横笛にまつわるもので、『平家物語』に描かれています。

斉藤時頼は、あるとき、平清盛の西八条殿で催された花見の宴で、建礼門院の雑仕・横笛の舞う姿を見て一目ぼれし、恋文を送り、やがて想い合う仲となります。 ところが、このことが父に知れて、「氏素性も知れぬ、つまらぬ女に恋するとは」と叱責され、出家してしまいます。

想い焦がれる横笛は、ある日、時頼を訪ねて行きます。
時頼が障子越しに見ると、すそをつゆで、そでを涙でぬらし、やつれた横笛の姿がありました。しかし、すでに出家の身であるため、「ここにはそういう者はいない」と告げさせます。
横笛は、歌を詠みました。

山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に 我を導け

時頼は、横笛への想いを断ち切るために高野山へ上り、それを聞いた横笛は奈良の法華寺で尼になりました。
横笛も尼になったと聞いた滝口入道は、横笛に歌を送りました。

そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ 嬉しき


横笛は、次のように返しています。

そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならでは

その後の横笛については、病に伏して死去したとか、大堰川で入水して命を断ったとか、高野山の麓へ移り住んだとか、 東山の清閑寺で余生を送ったとか、あるいはそもそも実在しないというような、さまざまな説があります。
一方、横笛の死を知った時頼は、修行ひと筋の生活を送り、人々の人望を集めて「高野の聖」と呼ばれるようになったと伝えられています。

新田義貞と妻の凄絶な愛の物語

滝口寺には、もうひとつ、鎌倉時代末期の武将・新田義貞にまつわる伝説も伝えられています。

新田義貞は、1333年、「切通し」と呼ばれる山間の細い道から鎌倉を攻めるとともに、干潮を利用して、海際の稲村ヶ崎の崖伝いに大勢の軍勢を攻め込ませることに成功し、鎌倉幕府第14代執権・北条高時を自刃に追い込みました。
その後、新田義貞は後醍醐天皇に仕えて建武の新政に参加し、華々しい人生を送り始めたかに見えました。
しかし、時は利あらず。足利尊氏と対立し、いったんは尊氏を九州へ追い詰めたものの巻き返され、越前国で流れ矢にあたって 戦死してしまいます。

このとき京都に運ばれて晒し首になっていた首を、妻の勾当内侍(こうとうのないし)が盗み出して、滝口寺のあるこの場所に葬り、出家して、生涯、亡き夫を弔い続けたと伝えられています。
滝口寺に伝わる、もうひとつの凄絶な愛の物語です。

三宝院は、応仁の乱で荒廃したものの、江戸時代まで細々と存続していました。
そして、明治維新後の廃仏毀釈運動によって廃寺となりましたが、同じく往生院の塔頭であった祇王寺が再建されたのに続いて、三宝院も再建されました。
再建に際して、明治時代の小説家・高山樗牛が『平家物語』をもとに小説『滝口入道』を描いて評判となっていたため、歌人で国文学者であった佐佐木信綱がそこから名を取って滝口寺と名づけ、今では奥嵯峨の静かな観光名所となっています。

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