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豊臣秀吉への愛情にあふれた「ねねの寺」

京都有数の人気観光スポット

臥龍廊

▲高台寺の臥龍廊

高台寺は、豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)ゆかりのお寺です。最初は臨済宗のお寺として始まり、1624(寛永元)年に建仁寺から三江紹益(さんこうしょうえき)を招き、臨済宗となりました。

曹洞宗も臨済宗も禅宗ですが、ねねのイメージが強いせいか、あるいは豪華けんらんとした桃山時代の遺風を伝えるためか、厳しい禅寺というよりは、女性的で雅びな感じを受けます。

徳川家康の協力を得て創建

ねねは、秀吉の没後、尼となって高台院湖月尼と称しました。そして、大阪城を側室の淀君と後継の豊臣秀頼に明け渡し、お寺を立てて京に移り住むことにしました。

建設にあたっては、徳川家康が協力してくれました。
関ヶ原の戦いのとき、小早川秀秋や加藤清正、福島正則ら秀吉の子飼いの武将たちが家康方につきました。それは、石田三成への反発のほか、家康の器量を見抜いて親交を保ったねねの影響が強かったためとされます。その恩義に報いるよう、家康は伏見城の殿舎をねねに提供することにしたのです。
また、賢夫人として人気の高いねねに協力することで、徳川家のイメージアップをはかる計算もあったようです。

秀吉の思い出の建物を選んで…

建物を提供することを決めた家康は、ねねに好きな建物を選ばせました。
ねねは素直に好意を受け取り、蒔絵(まきえ)で美しく装飾された客殿の化粧御殿を、現在の圓徳院に移して住居としました。
秀吉が月見を楽しんだ観月台は、高台寺へ移しました。

傘亭

▲傘亭

開山堂も高台寺へ移築。これは当初、持仏堂と呼んで、ねねの養父母の位牌をまつりました。
霊屋(たまや)は自分の廟所と定め、阿弥陀ヶ峰の豊国神社に向けて建てました。豊国神社には、秀吉がまつってあります。ねねは秀吉のことを見守っていたかったのでしょう。
そのほか、急勾配の道をたどる林の中には、傘亭と時雨亭という2つの茶亭を建てました。茶の湯を好んだ秀吉を偲んで、茶を楽しむためです。

加藤清正が、茶亭を除いてすべての建物を屋根付きの廊下などで結んでくれました。清正は、ねねが雨に濡れずに諸堂の間を歩けるように気遣ったのです。こうして、1606(慶長11)年、高台寺が完成しました。

高台寺で過ごしたねねの晩年

秀吉の思い出話に花が咲いて…

ねねは現在の圓徳院にあった化粧御殿で寝起きをし、朝になると坂を上って、今の高台寺の方に来て過ごしました。明治政府によって縮小されるまで、圓徳院は高台寺の敷地内でした。そんなねねのもとには、加藤清正や福島正則、前田利家の妻でねねと同じく未亡人となったまつなど、多くの人々がやってきました。
いったんは秀吉の猶子(ゆうし/この当時あった形式的な世継ぎ制度の子)とされながら、秀頼が生まれたため解消された八条宮智仁(としひと)親王も、造営中だった桂の山荘(今の桂離宮)から、名物のウリを持って訪れました。彼らにとって、高台寺は秀吉の思い出話をするための、よい場所でした。

徳川家の政策が影を落とした、ねねの晩年

しかし、1614(慶長19)年に大坂冬の陣が始まると、状況は一変。1615(慶長20)年の大坂の夏の陣で大阪城は徳川方の総攻撃を受けて、淀君と豊臣秀頼が自害し、豊臣家は滅亡しました。
さらに、家康は秀吉をまつる豊国神社を取り壊しました。豊国神社の再建は、はるかのち1880年(明治13)です。

ねねは気を落として病床に伏し、1624(寛永元)年、77歳で死去。その亡骸は、霊屋に葬られました。

霊屋の内陣に据えられた須弥壇(しゅみだん)には、秀吉が信仰した隋求(ずいぐ)菩薩像をはさんで、向かって左にねね、右に秀吉の像が安置されています。華麗な蒔絵が桃山時代の華やかさを今に伝えています。

紅葉のライトアップ

▲紅葉のライトアップ

【高台寺を含む京都観光コースガイド】

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圓徳院

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高台寺

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