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「わび」「さび」が美しい、閑寂清雅な庭園寺院。

銀閣寺

▲銀閣寺

銀閣寺は、室町幕府第8代将軍・足利義政が、東山三十六峰のひとつ、月待山の麓に造営した山荘「東山殿」を寺院としたものです。3代将軍・足利義満の建てた金閣寺に対比して、銀閣寺と呼ばれています。金閣寺が絢爛豪華な美しさを誇るのに対し、「わび」「さび」の美の極致とされています。

足利義政が東山殿の造営に着手したのは、応仁の乱が終わって5年が経過した、義政が47歳の頃です。

応仁の乱の引き金となったのは、義政と妻の日野富子との間に、長い間、子どもができなかったこと。後継者として、弟の足利義視(よしみ)を養子にしたところ、富子が男児・義尚(よしひさ)を産んでしまいました。

富子は我が子の義尚を跡継ぎにしたいと考え、足利義視は将軍になりたがりました。
足利義政がどちらとも決めなかったため、富子は山名宗全に応援を頼み、足利義視は細川勝元に応援を頼み、1467(応仁元)年5月、西軍と東軍の間で戦いが勃発しました。
乱は11年に及び、日本中が戦火に巻き込まれました。結局、山名宗全と細川勝元が病死して収束へ向かい、1478(文明10)年、足利義政と足利義視が和解して、跡継ぎは義政の実子の義尚とされました。

政治に関心のなかった義政は世の中が荒れるに任せ、現実から逃避するように、1483(文明15)年6月、未完成の東山山荘に移り住みました。翌1484(文明16)年、阿弥陀如来像をまつる東求堂を建設。東求堂には仏間を設けて、阿弥陀三尊像をまつりました。そして、極楽浄土を思い描き、茶を楽しみながら美しい庭の風景を眺めていたようです。
四畳半の「同仁斎」は、書斎としました。義政はここで書を読み、歌を詠みました。

我が庵は 月待山の麓にて かたふく空の 影をしそ思ふ

1489(延徳元)年、銀閣寺の中心的な建物である観音殿を上棟。つまり基本となる柱組ができました。しかし、中風を病んでいた義政は、翌1490(延徳2)年、観音殿の完成を待たずに、病没してしまいます。
「何ごとも 夢まぼろしと 思い知る 身にはうれひも よろこびもなし」というのが、辞世の句でした。

義政の死後、観音殿が完成しました。観音殿は潮音閣と呼ばれる下層と心空殿と呼ばれる上層の2層から成っています。
1階の潮音閣は書院造、2階の心空殿は唐様の禅宗様式を取っています。
屋根はこけらぶきの宝形造で、上に銅製の鳳凰を上げてあります。
完成した観音殿は、その内外に黒漆が塗られました。月が照ると、黒漆が鏡のように光りました。

東山殿は遺命に従い、寺とされました。そして、相国寺から住持を迎え、義政の法号「慈照院」から名を取って、慈照寺と名づけられました。
開山は夢窓疎石。夢窓疎石は足利将軍家初代の足利尊氏が建てた天龍寺でも、第3代義満が建てた金閣寺でも開山を務めています。これは特別に長生きだったわけではなく、名前だけ借りてきた「勧請開山(かんじょうかいさん)」です。

錦鏡池

▲錦鏡池のほとり

金閣が寝殿造を基調としているのに対して、銀閣寺は書院造を基調にしています。また、金閣が絢爛豪華であるのに対して、銀閣寺は閑寂清雅の趣です。そこに北山文化に対する東山文化の特色がよく出ています。

ただし、今日見られるような白砂の「銀沙灘」や白砂の「向月台」は、義政の時代にはありませんでした。
江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代に、戦国の世で荒廃した銀閣寺の修復工事が行われたとき、白川砂を盛り上げたと伝えられています。

銀閣寺から東の空を見上げると、月待山ともみじ山の間に月がかかります。その月影が庭内を照らし、「銀沙灘」と「向月山」を照らします。白砂には石英が豊富に含まれており、月光を受けてキラキラと輝きます。その銀沙をとり囲む松の樹林が、白砂青松のようです。

銀閣寺は、京都の中でも特別な美しさで、私たちを魅了し続けています。

【銀閣寺を含む京都観光コースガイド】

銀閣寺から平安神宮へ

【公式ホームページ】

銀閣寺

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