余白

ねねが暮らした美しいお寺

伏見城の化粧御殿が、圓徳院の元に

圓徳院

▲圓徳院

豊臣秀吉の正妻、北政所ねねは、1603(慶長8)年、側室の淀君が産んだ秀頼と千姫の婚儀を見届けたあと、髪を剃って仏門に入り、 朝廷から高台院の号を賜りました。それを機縁として、1605(慶長10)年、高台寺の建立を発願しました。

高台寺創建にあたっては、徳川家康が大きく協力してくれました。家康の器量を高く買っていたねねが、秀吉の死後も家康との親交を保ったため、加藤清正、福島正則、小早川秀秋といった秀吉子飼いの武将たちが、関ヶ原の戦いに際して、徳川側についたことへの感謝であったと言われています。

また、秀吉の賢夫人として人気の高いねねに協力することで、豊臣系の武将たちとの融和を図ったとも言われます。

家康はねねに、伏見城から建物を移築するよう、勧めました。伏見城は、かつて秀吉とねねが暮らした思い出の場所です。
ねねは喜んで好意を受け取り、建物をいくつか選びました。その中でもとくに好きだった客殿の化粧御殿を自分の住居とし、秀吉のお気に入りだった前庭とともに移築しました。これが圓徳院の始まりです。

ねねのまわりに、たくさんの人が集まって…

化粧御殿のすぐそばには、ねねの兄の木下家定やおいの木下利房が住まいました。
ねねは化粧御殿で寝起きし、目がさめると現在の高台寺がある方へ行ったりして、亡くなるまでの19年間をのんびりと過ごしました。当時はこの一帯すべてが高台寺でした。そして、高台寺には大らかな性格であったねねを慕う武士、僧侶、歌人、茶人、画家、陶芸家などが集まり、サロンのようになっていたと言われています。

圓徳院の北庭

▲伏見城の前庭を移築した圓徳院の北庭

1624(寛永元)年、ねねは死去。化粧御殿は永興院という名の、高台寺の塔頭(子院)となりました。
さらに1632(寛永9)年、木下利房が、高台寺の三江和尚を開基として、木下家の居館を木下家の菩提寺としました。その際、木下利房は自分の法号、圓徳院殿から名をとって、圓徳院と名づけました。

華やかな桃山時代を今に伝える圓徳院

歌仙の間

▲圓徳院、歌仙の間

化粧御殿(永興院)は残念ながら幕末に焼失し、その跡地に1887(明治20)年、建物が建てられました。それが圓徳院の北書院です。
現在の圓徳院は、ねねが暮らした化粧御殿と木下家の居館を合わせた土地にあると言えます。木下家の人々は方丈のあたりで居住していたようです。

圓徳院の内部には美しい襖絵や調度品が飾られ、秀吉が伏見城に巨石を運ばせてつくらせた庭が復元され、桃山時代の豪壮で典雅な雰囲気を色濃く漂わせています。

【圓徳院を含む京都観光コースガイド】

清水寺から知恩院へ

【関連するページ】
高台寺

【公式ホームページ】

圓徳院

楽天トラベル

風の旅TOP(全国)

余白 京都観光コース 京都のお寺と神社 京都の桜 京都の紅葉 京都のホタル 京のことの葉
余白 風の旅 京都観光街めぐり 京都のお寺と神社