石川五衛右門が釜ゆでにされた話は、実話なの?

石川五右衛門と言えば、歴史に残る大泥棒として有名です。
その子孫には、ルパン3世一味の「石川五エ衛門」もいます。
さらに、テニスマンガ「エースをねらえ」の岡ひろみが飼っていた黒ネコの「ゴエモン」は、ルパン3世一味の五エ衛門の飼いネコの子どもです。
これは、山本鈴美香がモンキーパンチから飼いネコの子どもをゆずり受けたのが、もとになっています。

もちろん冗談です。

さて、五右衛門にまつわる京都の話としては、南禅寺の三門に登った五右衛門が「絶景かな」と見栄を切る歌舞伎「楼門五三桐(ろうもんごさんのきり)」の場面が知られてします。
「絶景かな、絶景かな。春の眺めを値千金とは小さいたとえ、この五右衛門が目からは値万両、万々両。日もはや西に傾きて、誠に春の夕暮れの、桜の色もひとしお、ひとしお。ハテ、うららかな眺めじゃなア」
歌舞伎では、五右衛門は、国を盗もうとする豊臣秀吉を討とうとする義賊として描かれています。

豊臣秀吉は、若いころはハツラツとしたアイデアマンでしたが、晩年は老醜をさらけ出し、千利休や一度は後継者に指定した豊臣秀次とその室および子女三十九人を公開処刑するなどの蛮行を行いました。
これが、権力をふりかざすことを嫌う京都の人々の反感を買ったのか、このような事件をきっかけに権力嫌いの現在の京都の人の性格が形成されたのかはわかりませんが、京都の人々の間に秀吉嫌いの感情が形成されたことは確かなようです。

五右衛門は、秀吉に対し、「おまえこそ天下を盗んだ大泥棒じゃねえか」と語ります。
実際には、南禅寺の三門が再建されたのは徳川幕府の時代に入った1628年。
石川五右衛門が生きた秀吉の時代には、焼失して、存在しませんでした。
従って、つくり話であることは明らかです。

では、なぜ、南禅寺と五右衛門が結びついたのでしょうか。
おそらく、南禅寺は「五山之上」として、別格扱いを受けていたため、三門は京都市中が見渡せる権力の象徴のようになっており、後世の作家たちが脚色したのでしょう。
近年では、司馬遼太郎が、「梟の城」で、五右衛門を秀吉を襲撃した犯人に間違われて処刑される伊賀忍者として描いています。
初期の長篇なので多少のほころびはありますが、読むと、夢中になる面白さです。
しかし、現実には、石川五右衛門が史料に名を残すのは、1594(文禄三)年に京都三条河原で、強盗の罪で、豊臣秀吉によって一味とともに釜ゆでの刑に処せられたことだけです。

結論から言えば、石川五右衛門については、よくわかっていません。
単なるコソ泥だった可能性も高いでしょう。
しかし、後世の脚色に従った方が面白いですね。
歴史とは、「史実」とは別に、人の心の中に「ロマン」として生きるものでもありますから。

ところで、京都では、「十二月十二日」と書いたお札を、家の入り口に逆さに貼る慣習があります。
この日が石川五右衛門が釜ゆでにされた日で、逆さに貼れば、泥棒除けになると信じられているためです。
子どもだましみたいな慣習ですが、こういうのも京都という街の面白いところです。


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