京都観光ガイドブックの始まり

桓武天皇によって794年に都と定められた平安京は、歴史上は京都(けいと)あるいは京洛、あるいは京などと呼ばれ、長く日本の首都としての機能を果たしていた。京都に対する人々の興味関心は古くからあったようで、江戸時代の1711年(宝永8年)に儒学者の貝原益軒が『京城勝覧』を著し、東海道の西の終着点であった三条大橋を起点としてめぐる複数の観光コースを紹介している。

1780 年(安永9年)には、大阪の絵師・竹原春朝斎の絵と、京都の俳諧師・秋里籬島の文章によって京都を紹介した『都名所図会』という本が、京都の版元・吉野屋為八によって出版され、全国各地で人気を博した。明治時代に至るまでに出版された『都名所図会』の類書は、60余を数える。これらの本は実際に観光ガイドとして使用されるだけでなく、旅は簡単でなかった当時の社会においては、むしろ京へ憧れを満たす本としての役割が大きかったと推測される。 なお、『都名所図会』は、国際日本文化研究センターの次のサイトで見ることができる。

都名所図会データベース

1895年(明治28年)4月1日から7月31日まで、第4回内国勧業博覧会が京都で開催された。第1回から第3回までは東京で開かれ、内国勧業博覧会が東京以外の都市で開かれるのは始めてであった。同年、10月22日から24日まで平安遷都千百年紀祭が計画された。平安遷都千百年紀祭の最大の事業は、平安京の大内裏を8分の5の大きさで復元した大極殿、すなわち平安神宮の建設であった。 第4回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀祭の開催をきっかけに、『京名所写真図絵』が出版された。これは法学博士の広池千九郎が編者となり、アメリカで当時最新の写真術や印刷術を学んで帰国した小川一真と協力して制作したもので、写真入りの京都観光ガイドとしては最初のものである。『京名所写真図絵』の巻頭には、大極殿応天門(平安神宮)をはじめ、嵐山(渡月橋)、金閣寺、三十三間堂(仏像)、知恩院(山門)、下賀茂(正面鳥居)、本願寺(西本願寺)、三條大橋、島原、伏見稲荷、祇園祭礼、清水寺、東本願寺、第四内国勧業博覧会の計14点の写真が収められ、桓武帝之御真影と壬生狂言が絵で掲載されている。

1970年代に国鉄(現在のJR)が日本全国の小京都などを紹介する「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを行うと、『アンアン』や『ノンノ』などの雑誌にも、しばしば京都観光の特集記事が組まれるようになった。そして、京都で自分を見つめ、日本を見つめるという旅のスタイルが確立された。このような旅のスタイルは、現在の観光客にも受け継がれている。

現在、観光ガイドブックの2大出版社は、『るるぶ』のJTB出版と『まっぷる』の昭文社となっている。京都観光についてのガイドブックは、大型のムックから持ち運びに便利な小型本まで、また、初心者向けの者からリピーター向けのものまで、さまざまな本が出版されている。

京都の人口と観光客数の推移

1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生すると、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸し、長期にわたって滞在することになった。京を都として残し、新たに東京に都を設ける奠都(てんと)という形がとられたが、事実上の遷都であり、太政官(政府)も東京に移動された。これにより京都は地方都市のひとつとなった。
東京奠都により、天皇家だけでなく公家や商人の多くも東京に移り住んだ。この頃すでに京都の衰退は始まっていたが、それでもまだ明治元年には、京都は東京と大阪に次ぐ国内3位の都市であった。1878年(明治11年)にも、京都の人口は東京の67万人、大阪の29万人に次いで23万人であり、まだ「華の都」としての地位を保っていた。 しかし、1935年(昭和10年)には名古屋に抜かれ、戦後は横浜と札幌に抜かれた。現在の京都は人口約147万人で、福岡市とほぼ拮抗し、全国6〜7番目の都市である。

京都の都市としての地位が下落していくのと逆に、観光客数は増加していった。とくに1965年(昭和40年)頃から急激に伸びている。ただし、京都への観光客は、東京、名古屋、大阪などほかの都市圏からが多い。このことは京都への観光客が京都に求めているものは、大都市の刺激や洗練された風俗などではなく、古都としての味わいであることを物語っている。

季節による観光客の動向

京都への観光客は春の桜の時期からゴールデンウイークにかけて増えて、梅雨から夏にかけて少し減り、秋に増えて紅葉の時期にピークを迎え、年末に急激に減って、翌年2月くらいまでが底である。地球温暖化が進んでいるためか、近年、紅葉は11月末から12月初めに最も美しくなる年が多いが、観光客数は11月に最大となる。しかし、人数として最も多い関西圏からの観光客の多くは日帰りで帰ってしまい、京都の収益拡大にあまり貢献しない。そこで平安遷都1200年にあたる1994年(平成6年)頃から宿泊客を増やすために夜のライトアップが行われるようになった。それにより11月の宿泊客数は1995年(平成7年)から急激に伸びたが、冬の観光客数をさらに落ち込ませる結果も招いた。
「冬枯れ」対策としては、東寺の寺宝を時期限定で公開する「東寺 冬の特別拝観」などの寺や神社の企画をJRがバックアップするキャンペーンなどが行われている。

都市としての京都の推移と観光

明治維新後、京都市では都市としての衰退を防ぐために、1872年(明治5年)から1877年(明治10年)にかけて、寺町通の東側、三条通と四条通の間にあった誓願寺、四条金蓮寺、圓福寺、錦天神社周辺を官有地化して開発を行った。この地域は寺町の古名である京極に対して新京極と名づけられ、盛り場となった。文明開化の象徴である瓦斯灯や電灯が整備されて、「不夜城の観」であったと伝えられている。
新京極には芝居小屋が集中し、大正時代に入ると映画館も建設された。現在でも新京極は、京都市民や観光客が集まる繁華街のひとつである。

1881年(明治14年)から1885年(明治18年)にかけて第一次琵琶湖疎水の建設が、1908年(明治41年)から1912年(大正2年)にかけて第二次琵琶湖疎水の建設が行われた。また、1895年(明治28年)の第4回内国勧業博覧会のために、日本で最初の市電も整備された。
琵琶湖疎水建設の際には、蹴上以北の分線が南禅寺の境内を通ることになり、建築家の田辺朔郎が景観に配慮して設計したものが、南禅寺水路閣として遺されている。水路閣は幅4m、高さ9m、全長93.2mのアーチ型の建物で、1888年(明治21)に完成した。レンガと花崗岩でつくられた姿は、年月を経過することで風格を増し、水路閣を背景に人物を撮影すると美しい写真が撮れることから、現在では観光客の間で写真スポットとして人気が高い。
また、疏水分線は銀閣寺方面へ伸び、その近辺は京都大学に近く、哲学者の西田幾多郎が好んで散歩したため、「哲学の道」という名で、観光名所となっている。

京都市内の寺や神社でも、整備が行われた。現在、京都観光で最も人気のある清水寺からコンスタントに高い人気を保っている高台寺へ至る一帯も当時はさびれており、夜は暗がりであったが、整備されていった。そして、京都全体の整備が進むとともに、観光客も増大していった。京都への観光客は「京都らしさ」を求めているが、実のところ「京都らしさ」とは、平安時代以降の文物のイメージをもとに憧れを抱く観光客の「外からの目線」を受けて、それに応える形で、現代の建築・土木技術によって人工的に形成されたものであるという解釈も成り立つ。

第二次世界大戦後は、京都市の主導による都市計画の遅れから、市民がてんでばらばらに家々を立てたため、雑然としてしまったエリアも多かった。現在でも、金閣寺に近い千本一帯などには古くてごみごみした街並が遺されており、街の整備が今後の京都市の課題となっている。その一方、大原のように「京都らしさ」を保って統一感のある街づくりに一定の成功を収めた地区もある。

「京都らしさ」を象徴する典型のひとつが町家である。昔の京都の風情を遺した建物として観光客の人気を集めたことから京都市民の中にも保全意識が高まっている。しかし、建物の一部を補強するとかえって地震に弱くなってしまうようなこともあるため、財団法人の京都市景観・まちづくりセンターでは地震に強い補強の仕方などを指導している。

京都の景観問題

高度成長期に入ると、京都の都市化は著しく進行した。観光客は京都に日本の伝統的な風景を求めていたが、生活者である京都市民は便利で快適な住居を求めた。そのため伝統的な町家は次々と姿を消し、鉄筋コンクリートのビルに置き換わっていった。そのような情勢の中、1963年(昭和38年)に京都タワーの建設が始まった。京都タワーは「京都の街を照らす灯台をイメージした」とされているが、その建設計画に際しては作家の大佛次郎などの文化人や学識者などから成る「京都を愛する会」から「京都にふさわしくない」と反対意見が出された。しかし、市民運動として大きく広がることはなく、予定通り建設され、翌1964年(昭和37年)に完成した。京都タワーについては、京都市民の中にも観光客の中にも違和感を感じる人が現在でも少なくない。決して歓迎されているとは言えないが、京都の街を360°見渡すことが出来る展望台からの眺望は、観光客に人気である。

京都タワーの建設が進んだ時期には、大陸から渡来した秦氏に関係すると見られる古墳群が存在する雙ヶ岡(双ヶ丘/ならびがおか)の売却問題や、豊臣秀吉の都市計画事業である御土居の破壊問題などと相まって、環境行政が始まった。そして、1966年(昭和41年)に「古都保存法」が制定され、「歴史的風土保全区域」と、さらに厳しく管理される「歴史的風土特別保存地区」が制定された。

1988年4月、京都市が「総合設計制度」を導入したことで、それまで高さ45mまでに制限されていた市中央部で、60m以上の建物の設計が可能になった。1990年(平成2年)、京都ホテルが改築計画を発表し、これに対して京都仏教会が反対の意志表明を行い、京都ホテルの宿泊客の拝観を拒否する措置をとった。また、同じ1990年の8月にはJR京都駅改築計画が発表され、多くの有名建築家によるコンペの中から、1991年5月、原広司氏の設計案が選ばれた。高さは58.9mであった。

現在でも都市化と伝統保全という矛盾する問題の折り合わせは、京都市にとって重要な課題となっている。景観に配慮した条例に合わせて、コンビニエンスストアなどでは看板の色を地味に抑えている店もある。ただし、区画ごとに規制が異なるため、観光客の目から見ると、通常の看板の店と地味な色の看板の店が混在しているように見える。
また、自動販売機の中には外観を木目調にして、木造建築の多い街並や神社仏閣の風景に合わせているものもある。

修学旅行先としての京都

明治時代には、すでに京都を修学旅行先として選ぶ学校もあった。修学旅行は、江戸時代、各藩の藩校で教育の一環として行われていた神社詣や寺子屋で行われていた花見などの行事の流れを汲むものである。
明治時代初期には、休日に生徒を引率して、初詣、散歩、花見、見学、登山などを行う教師が現れた。ただし、その活動は、立正大学教授として教育学に携わっていた山本信良によれば、教育目的と言うよりは、学校生活に折り目をつけたり、人間関係を親密にするためのものであった。山本信良は、その著書「学校文化としての小学校修学旅行の成立と展開」の中で、「修学旅行前史というべきものであった」と記している。

修学旅行は初期には行軍的な色彩が強かったが、大正時代にかけて広まっていくうちに、次第に観光や見学的色彩が強まっていく。ただし、行軍的要素も消えることはなく、現在のような観光と学習と生徒同士の交流のための旅行となるのは、戦後のことである。

京都を修学旅行先として選ぶことについては、「子どもにはまだ早い」という意見と、「子どものうちに古都に触れさせることに意味がある」という意見がある。学校の教師の中には前者の意見を持つ者も少なくないが、定番の路線の新幹線の割引が大きいというような現実的な理由で、京都を選ぶ学校が多い。

観光地としての京都の課題

京都は日本最大の観光地となった。その地位は今後も続いていくと思われるが、課題も集積している。その最も大きな問題は、おもな観光客の層が中高年に偏っていることではないだろうか。高齢化が進む中、観光客の年齢層が上がっていくのは避けられないし、京都のよさを理解するには年齢的な成熟を必要とするとしても、若い世代にとって十分に魅力ある観光地となっていないことが懸念される。「初心者」にとって、京都の街は「京都らしさ」の感じられないゴミゴミとしたものである影響が大きい。JRの「そうだ 京都、行こう」のイメージとのギャップから、「また来たい」と思わない若者は少なくないように思われる。
今後は京都市全体をテーマパーク化するくらいの壮大な構想を持って街並の整備を進めていく必要があるだろう。

京都観光街めぐり

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