金閣寺

金閣寺は京都北山にある臨済宗の寺、鹿苑寺の別称です。1397年、公家の西園寺家の山荘を室町幕府3代将軍、足利義満が譲り受けて北山第(北山殿)を造営し、 以後1408年に義満が没するまでの10年間、北山第は室町幕府政治の中心となりました。
足利義満の死後、遺命によって禅寺となり、子の義持が北山殿のうちの舎利殿を中心とする一部を、夢窓疎石を勧請開山として寺に改めました。
寺号の鹿苑寺は、義満の菩提を弔うため,その法号の鹿苑院殿にちなんだものです。建物のうちの舎利殿が、今日で言う金閣寺です。

金閣は鏡湖池(きょうこち)にのぞみ、初層は寝殿造り、中層は武家造り、上層は禅宗仏殿造りの3層の楼閣となっています。「金閣寺」の名は、漆地に金箔を押したところから呼ばれます。

その美しさは日本人の平均的な美意識とは異なったものであるせいか、鏡湖池のほとりを歩いていると、しばしば「金閣寺より銀閣寺の方が好き」という声が聞こえてきます。 私自身、修学旅行のとき、そんなことを言っていたような記憶があります。しかし、大人になって改めて見ると、その美しさはやはり格別です。

金閣寺の創建当時の建物は1950(昭和25)年に放火により焼失し、5年後に再建されましたが、三島由紀夫はこの焼失事件を題材に、小説『金閣寺』を書き上げています。
それは金閣寺の「美」に狂ったひとりの青年を描いたものです。

小説『金閣寺』は、金閣寺に放火する若い僧が、生い立ちから“挙行”までを独白する形式で描かれ、現実の金閣寺とイメージの金閣寺が絡み合いながら、美の敗北者としての「私」を追い詰めていきます。

幼い時から、金閣ほど美しいものは地上にないと父に聞かされた「私」は、幻の金閣を心に抱きながら育ちます。病弱で吃音を抱えた自分を「醜」の代表と考え、青年僧は「美」に対する観念を深めていきます。

ともに滅びるはずだったものが、再び美と醜に分断され、「私」は金閣を焼くことを決意します。

この青年僧は、もちろん三島由紀夫の分身です。芸術家である三島由紀夫にとって、世界はイメージによって成り立っていました。
三島由紀夫は、天才だけが持つ自分の頭上後方約1mのところに浮かぶ理性の目で完全に客観的に自分を見つめながら、「美」に溺れそうになる自分を制していたのでしょう。

金閣寺右斜め像

こちらは右斜め像。金閣寺は正面より少し斜めの方がきれいに写るような気がします。


金閣寺の屋根の鳳凰

金閣寺の屋根には、飾りの鳳凰がついています。中国ではめでたい鳥とされ、しばしば皇帝を象徴します。


金閣寺の庭園の木立

金閣寺の敷地はかなり広く、たくさんの木々が植えられています。その間を歩いて行きます。


金閣寺の銀河泉

こちらは銀河泉です。足利義満もこの水を飲んだのでしょうか。


金閣寺の鯉魚石

龍門の滝と鯉魚石です。確かに鯉によく似ています。


白蛇の塚

縁起のよい白蛇の塚です。手前の石ではなく、奥の小さな石塔が塚です。


貴人橸

小さなわらぶき屋根の建物の前に、「貴人橸」というこしかけ石がありました。修学旅行生たちの人気の的です。


秋の金閣寺

こちらは秋の金閣寺。広大な境内には、かえでの木が多く、紅葉はそうとうな美しさです。


冬の金閣寺

最後は冬の金閣寺。雪景色の美しさもまた見事です。


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【金閣寺の基本情報】

●正式名称

鹿苑寺(ろくおんじ)

●通称・別名

金閣寺(きんかくじ)

●宗派

臨済宗相国寺派

●山号

北山(ほくざん)

●本尊

観音菩薩

●住所

〒603-8361京都市北区金閣寺町1

●電話

075-461-0013

●見学に要する時間

40分〜1時間半ほど。

●拝観時間

9:00〜17:00
※終了時間の30分前までに入場してください。
※特別拝観時は時間が異なることもあります。

●休日

年中無休

●駐車場

民間の駐車場を利用。

●拝観料

大人  400円
大学生 400円
高校生 400円
中学生 300円
小学生 300円
※団体割引なし。

●車いすによる拝観

可(一部の階段や坂道は無理ですが、おもなところはまわることができます。)
※障害者証明証持参の方、100円。付添人は有料。


【金閣寺観光のワンポイント】

小説家で 歴史研究家でもある井沢元彦は『逆説の日本史ー中世王権編』の中で、次のような説を述べています。
金閣寺は1層が寝殿造、2層が武家造、3層が中国風の禅宗仏殿造になっており、頂上に鳳凰が乗っています。
この1層は天皇家を含む貴族を、2層は武士、3層と鳳凰は、金閣寺を建てた足利義満自身を象徴しているというものです。
中国風の3層がなぜ足利義満を意味するのかと言えば、足利義満は明の皇帝から日本国王に封じられているからです。
さらに、井沢元彦は、足利義満は天皇に取って代わり、自らが天皇となる野望を持っているのではないか、と推測しています。鳳凰は中国では天子(皇帝)の象徴だからです。
たしかに、そういうことも言えそうです。面白い説ですね。

●金閣寺3層の意味

金閣寺3層の意味

【金閣寺へのアクセス】

●京都駅から
市バス205系統西ノ京町・金閣寺行きに乗り、「金閣寺道」下車。徒歩3分。

●四条河原町から
市バス205系統西ノ京町・金閣寺行きに乗り、「金閣寺道」下車。徒歩3分。
※他路線バスでも行けたり、他ルートがある場合もあります。


【金閣寺の年間行事】

2月

●2月3日
不動堂 開扉法要

特別開帳と法要が行われます。法要の前後、堂内を参拝できます。

●2月23日
方丈特別拝観

ふだんは非公開の方丈を見ることができます。

8月

●8月16日
不動堂 開扉法要 

特別開帳と法要が行われます。法要の前後、堂内を参拝できます。

11月

●11月21日
開山忌

鹿苑寺の開山(創始者)を祀る法要です。

※天候その他の諸事情により中止もしくは変更になることもあります。


【金閣寺の歴史】

金閣寺を建てたのは、室町幕府第3代将軍、足利義満です。
義満は1378(永和4)年3月10日に北小路室町(現在の京都市上京区室町通今出川北周辺)に新亭を営み、屋わたりしました。
この屋敷は北小路亭とも花の御所とも呼ばれました。また、室町幕府という名前は、室町にあったことから来ています。


1397(応永4)年、義満は鎌倉時代に栄えて没落した公家の西園寺家と交渉して、北山の山荘を譲り受けました。そして、北山第(北山殿)の造営を始めました。 その際、舎利殿の外壁に金箔を貼ったのが、金閣寺の始まりです。


そして、1394(応永元)年、義満は37歳にして太政大臣を辞し、子の義持に征夷大将軍職を譲って、翌年出家すると、北山第に移り住みました。しかし、実権を手放したわけではありません。 もともと幕府が朝廷を通さずに独自に明と国交を持とうとしたところ、「天皇の臣下と通交することはできない」と明から断られたため、天皇の臣下でなくなるために職を辞しただけのことです。
義満は意欲的に政務にあたり、1401(応永8)年、明に使節を送って、明の建文帝から日本国王として認められると、1404(応永11)年から勘合貿易を開始します。対明貿易の勅使も、北山第で迎えていました。
また、しばしば貴族を集めて和歌の会や管弦の会を催しました。この時代、優美な公家の文化と力強い武家の文化が融合し、のちに北山文化と呼ばれることになります。


1408(応永15)年には、後小松天皇の行幸を迎えて盛大な宴を開き、義満の得意さは絶頂に達します。しかし、そのわずか2ヶ月後、義満は急病で死去してしまいました。


義満が権力を握って手放さなかったため、子の義持は名ばかりの将軍となっていました。そのため義持は父、義満に強い反感を持っていました。
一方、義満は、義持の異母弟にあたる末っ子の義嗣を溺愛し、いっしょに北山第に住んでいました。
義満が死去すると、義持は義嗣を北山第から追放し、自分が住み始めました。しかし、翌1409年(応永16年)には北山第の一部を壊して、三条坊門第に移ってしまいました。 その後、北山第は、義満の妻で北山院と呼ばれた日野康子の御所となりましたが、1419年(応永26年)11月に北山院が死去すると、1420年(応永27年)、北山第は義満の遺言により禅寺とされ、 義満の法号「鹿苑院殿」から名を取って、鹿苑寺と名づけられました。


応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失しましたが、舎利殿(金閣)は被害を免れ、江戸時代に入るとその他の主要な建物も再建されました。
1950(昭和25)年7月2日未明、大谷大学学生の林承賢によって放火され、国宝の舎利殿が全焼し、足利義満の木像や観音菩薩像などの文化財6点を焼失しました。
しかし、1955(昭和30)年に再建され、現在に至っています。なお、金閣寺放火事件は、三島由紀夫の『金閣寺』や水上勉の『五番町夕霧楼』などに描かれています。


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【公式ホームページ】

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