清少納言

(せいしょうなごん)生没年不詳。966年頃生まれ、1025年頃死去と推定。

清少納言は、平安時代を代表するエッセイストであり、歌人です。父は『後撰和歌集』の編纂者のひとりとして名を残す清原元輔(もとすけ)、母は明らかでありません。
「清」は姓を、「少納言」は女房名を表わしています。父か兄の官位が納言であったことからついた、と思われます。

清少納言は、幼少のころから和歌や漢学の教育を受けて育ち、981年頃に橘則光と結婚。則長を産みました。しかし、離婚し、 993年から一条天皇の中宮定子(ていし)に使えます。そのころ藤原棟世と再婚しています。

宮中での生活は約10年に及び、宮中では定子方を代表する女房となりました。
才気煥発な女性であったらしく、『枕草子』には、ある雪の高く積もった日、定子が唐の詩人、白居易の「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る」と いう一節にならい、 「清少納言よ、香炉峰の雪はどうでしょう」と言ったのを受けて、清少納言が、サッと格子を上げたエピソードが記されています。

『枕草子』は、996年頃から1008年にかけて書かれました。日記風の章段、自然や人生への思いをつづった章段、 「ものはづけ」による類聚的章段から成ります。
「ものはづけ」とは、枕となる題を提示して、連想に連想を重ねていく様式です。 たとえば「近くて遠きもの」は、「宮の前の祭」「 思わぬ同胞」「親族のなか」「鞍馬のつづらおり」などと続いていきます。
これは、唐で生まれて日本へ伝わり、庶民の遊びともなっていた「十列」を文芸の域まで引き上げたものです。

『枕草子』には、紫式部の『源氏物語』のような奥深い物語性や、和泉式部の和歌のような情熱はありませんが、 知的で快活に宮中の生活がつづられています。

晩年、清少納言は、現在の京都市東山区月輪町あたりで、ひっそりと暮らしました。『無名草子』や『古事談』には、零落して放浪する清少納言のようすが描かれていますが、事実ではなさそうです。

なお、紫式部とはライバル関係にあったとよく言われますが、宮仕えした時期がズレており、これも事実とは言えません。
紫式部は『紫式部日記』に、「清少納言は賢いふりをして、漢字を書き散らして、鼻持ちならない」と記していますけれど、あとから宮仕えした、怨念タイプの紫式部にとって、明るく才気煥発な清少納言はまぶしすぎ、嫉妬と憎悪の対象となったのでしょう。

清少納言は、 紫式部が出仕したころには、宮仕えから引退しており、紫式部に対するコメントは残していません。


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