菅原道真

(すがわらのみちざね)845-903年

菅原道真といえば、現在では「学問の神様」として、あまりにも有名です。
「天神様」といえば、道真を指すほどです。
実際には、天神とは地神(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)の総称ですから間違いなのですが、道真ばかりがクローズアップされています。

菅原氏の祖先は、古代の豪族、土師(はじ)氏です。土師氏は、埴輪や食器などの焼き物づくりや古墳の造営、祭礼などを指揮する立場に あったため、名族でありながら、中級貴族に甘んじていました。

菅原氏は、道真の曾祖父にあたる菅原古人(ふるひと)に始まりますが、土師氏のころと変わらず、貴族としては、中級のあつかいを受けていました。 しかし、曾祖父、古人も、祖父、清公(きよただ)も、父、是善(これよし)も当代一流の学者であったと伝えられています。
道真から6代後には『更級日記』の作者、菅原孝標女(たかすえのむすめ)が出ています。孝標も優秀な学者でした。これだけの世代にわたって学者を排出する家系も、 珍しいでしょう。

道真は11歳で詩をつくり、862年、18歳で文章生(もんじょうしょう)となりました。
877年には式部少輔(しきぶしょうゆう)となり、さらに文章博士を兼ねました。これは学者としては、非常な名誉にあたりますが、そのため多くの人々の 妬みの対象となったようです。

886年、讃岐守として赴任。地方に飛ばされたわけで、道真も不本意でしたが、地方の人々との交流は、道真の人間的成長につながった、と推測されています。
この任期中、事件が起きました。宇多天皇が藤原基経(もとつね)を関白に任じ、大政を任せようとして、橘広相(たちばなのひろみ)に詔勅を起草させたのですが、その中の「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」という一文について、藤原佐世が「阿衡には実権がない」と言ったために、基経が拒否したのです(阿衡事件)。
結局、宇多天皇は、橘広相を罷免し、自らの誤りを認める詔を下すことになりました。大いに誇りを傷つけられたに違いありません。

これは橘広相を失脚させようとする藤原佐世の陰謀とも、自分の権力が天皇より大きいことを認識させようとする基経の政治的行為とも考えられますが、多くの学者が基経にゴマを擦る中、菅原道真だけが基経に書状を送って、橘広相を弁護し、基経の名誉のためにも遺憾であると伝えました。
道真の真直ぐな性格を物語っています。

890年、道真は讃岐守の任期を終えて帰郷。翌891年に藤原基経が死去すると、宇多天皇の厚い信任を受け、基経の子、時平と並んで、参議、中納言と進みます。

政治家としての道真は、それほど大きな功績はありませんが、894年、遣唐大使に任ぜられた際、行路の危険や唐の戦乱のようすから、廃止を進言したことは、よく知られています。
ただし、これは一般に考えられているように、道真が積極的に考え、行動したものではなかったようです。商船を通じて十分な情報が入ってくるため、朝廷としては廃止の方向に動いており、道真はそれに沿って、手続き的に意見しただけと推察されます。
したがって、道真の「英断」とか「臆病」と語ることは、あまり意味を持ちません。

897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位しました。宇多天皇は、醍醐天皇に、時平と道真の両者を重用するよう意見し、醍醐天皇はよく聞き入れました。

899年、時平は左大臣・左大将となり、道真は右大臣・右大将となりました。901年の正月、時平と道真は、並んで従二位に進みます。しかし、その月のうちに、道真は大宰権帥(だざいのごんのそつ)として、九州に左遷され、栄光の絶頂から転落します。道真の娘が醍醐天皇の弟の斉世(ときよ)親王の室となっていたことから、「醍醐天皇から皇位を奪い、斉世親王を天皇にすえようとしている」と、時平に讒言されたのです。

道真が都を去るときに詠んだ歌は、有名です。

東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

※「春な忘れそ」は、後の時代の表記。

道真は、903年、失意のうちに世を去りましたが、その後、時平が39歳の若さで死去したり、清涼殿に雷が落ちて延臣が死んだり、皇太子に不幸が続いたりしたため、道真の怨霊のたたりであると、噂が広まりました。

そのため、道真は罪を許され、正一位太政大臣の位を贈られました。また、京都、北野の地に天満宮が建てられ、神として祀られることになりました。
それが北野天満宮です。


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