紫式部

(むらさきしきぶ) 本名・生没年不詳。誕生には970年説、973年説などがある。

紫式部は、藤原為時(ためとき)の娘として生まれました。父方、母方ともにすぐれた学者の多い家系で、父、為時も当代有数の学者であり、詩人でした。
紫式部は、幼いころに母を亡くし、父から漢籍、仏典、音楽などを習いながら育ちました。そして、996年、越前守となった父について北陸へ下り、 翌々年に帰京。藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、 翌年、賢子(けんし)を産みました。しかし、家庭にはあまりめぐまれず、1001年に夫の宣孝が亡くなり、 『源氏物語』を書き始めます。

紫式部の本名はわかっていません。1005年の終わりか1006年の初めごろから、一条天皇の中宮、彰子のもとに出仕して家庭教師役をつとめ、藤式部と呼ばれました。 その後、『源氏物語』が評判になるにつれて、初期のヒロイン、紫上(むらさきのうえ)にちなんで、紫式部と呼ばれるようになりました。

とはいえ、紫上をもって紫式部の分身とするのは、短絡でしょう。「分身」を考えるなら、登場してくる女性たちすべてであったと見た方がよいと思います。
紫式部が結婚したとき、夫、藤原宣孝にはすでに妻子があり、紫式部は、愛とともに嫉妬、憎悪などの感情をも経験したことでしょう。
ほかの女のところに行く夫を見て、「でも、男ってそういうものなんだから、許してあげなきゃ」と無理に思おうとする気持ちが紫上になった、と推測できます。
紫上が女性として「できすぎ」なまま死んでしまうのは、おそらくそのためです。
「できすぎ」な女性が、存在し続けることはできないですから。

嫉妬に狂って生き霊となり、光源氏の正妻、葵の上をとり殺す六条御息所(みやすどころ)も紫式部。
無知で無垢なまでに、廃屋でいちずに光源氏の訪れを待ち続ける末摘花(つえつむはな)は、紫式部の清らかさへのあこがれ。
自意識の固まりで、光源氏を拒否し続ける空蝉(うつせみ)に至っては、紫式部の性格の中心的な部分そのものでしょう。
関係を結んだら、すぐに捨てられることがわかっているから、拒否することで愛され続けようとするところなどは、もうひとりの平安の女流文学者、 清少納言の竹を割ったような性格とは正反対ですね。
慎ましやかな表面の下に、怨念のように強烈な自我が渦巻いています。

紫式部は、そんな自分の複雑な性格を、自分の頭上約1mやや後方に浮かんだ第3の目で冷静に見つめ、 自分自身の心を『源氏物語』に登場してくる女たちとして昇華させていったのでしょう。
見方によっては、光源氏はさまざまな「自分」を見つめ直すための鏡に過ぎない、 とも言えます。

光源氏には、どこか藤原道長の影が見えます。
藤原道長は、紫式部のパトロンでした。まずまちがいなく性的関係もあったと思われます。
米や高価だった紙のような物質的な援助を行い、自分の体験をおもしろおかしく話しながら、紫式部が物語をつむぎ出すのを触発していったと想像するのは楽しいです。
現代につれてくれば、優秀な編集者となったかもしれません。

紫式部は、1010年の夏ごろまでに『源氏物語』を完成させ、『紫式部日記』をまとめています。 そして、1013年10月ごろから宮仕えを中断し、1019年に再び彰子のもとに出仕しています。

そのあとのことは、わかりません。没年については、いくつか説はありますが、推測の域を出ません。


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