平安京

伝説によると、今から1200年以上前、京都東山の中腹の、現在、五山の送り火のビューポイントのひとつとなっている将軍塚や大日堂のあたりから、 川をはさんで開けた土地を見下ろしていた人物がいました。
奈良時代、僧侶の道鏡が天皇の位を奪おうとしたとき、宇佐八幡宮の神託によって、これを斥けた和気清麻呂(わけのきよまろ)です。

彼の目の下に広がる地は、中国の道教でいう四神に相応しており、新しく都を建設するにふさわしいと思われました。 四神相応とは、4つの想像上の動物を地形に見立てた都造りの理念です。都は、この4つがそろっている場所に置くのが理想とされていました。

平安京の中心は、現在の千本丸太町周辺です。京都市の中では西寄りの、鴨川と桂川にはさまれた一帯です。ここから見ると、次のようになります。

北には亀と蛇が合体した玄武がすむ山:船岡山
東には青龍のすむ川:鴨川
南には朱雀が遊ぶ池や湖:巨椋池(おぐらいけ/豊臣秀吉のころから干拓が進み、昭和時代に消滅)
西には白虎がいる大きな道:山陰道と山陽道

和気清麻呂は、さっそく桓武天皇に報告しました。
天皇は、遷都を決意しました。こうして、古代最後のスーパー都市、平安京は誕生しました。

さて、古代の日本では、しばしば遷都が行われました。それにはいくつかの理由があります。

大寺院を見慣れていると意外ですが、王宮は素朴な掘立建築で、長くても20年くらいしかもたなかったこと。
そのため、遷都して数年も経つと、貴族たちが自分の勢力圏へ移そうとして、政争を始めたこと。
政争のたびに、殺人が行われ、怨霊が出没した(と信じられた)こと。
当時、人口は増えつつあり、常により大きな都が求められたこと。
遷都して年月が経つと、川の汚染などによって、都市機能が衰えたこと。
 …などによります。

この時代の経緯を記した『日本後紀』は、全40巻のうち10巻しか現存せず、桓武天皇が遷都を決意した理由は不明ですが、 上記の理由などから推測することはできるでしょう。

平安京は、平清盛による短期間の福原遷都を除けば、約1000年にわたって、日本の政治の中心であり続けます。
京都盆地は軍事的には堅固さに欠け、外敵の侵入を許しい面はありますが、土地が広く、水路も発達し、交通の要衝にあって、大都市を営むには適していたのでしょう。

市街地は、桂川が流れるせいで湿潤な西部から、土地が乾いた東部へと広がっていきました。

ずっと後年、明治維新の際、東京奠都(てんと)によって天皇不在の都となりましたが、日本文化の粋を伝える古都として、国内はもちろん世界中から多くの観光客を引きつけています。


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