藤原道長

(ふじわらのみちなが)966-1027年

『大鏡』に、こんな逸話が残されています。
藤原道長の父、兼家が、才気煥発な関白頼忠の子の公任(きんとう)を評して、「我が子たちは遠く及ばない、影を踏むこともできまい」と言ったところ、 上の息子2人は黙って、うつむいてしまいましたが、道長だけは、傲然と「影を踏むことはできなくとも、顔を踏んでやりましょう」と答えたそうです。

藤原道長は、藤原氏が最も勢力を誇った平安時代中期の絶対権力者です。
その人生は、若いころから強運に守られていました。
父、藤原兼家は、道長が子どものころは、出世が遅れていましたが、やがて摂政となると、なりふりかまわず、子どもたちを重要な役職に引き上げます。
道長も従四位上から3階飛び越えて従三位へ上り、その後、累進して権大納言となります。
それでも、道長には2人の兄がいるため、簡単に最高権力者のお鉢はまわってこないはずでした。
しかし、995年、疫病が流行し、兄の関白、道隆が病没。そのあとを継いで関白となった道兼も、わずか7日で病没。運命は、この傑物を押し上げ始めます。

道長には、ライバルがいました。兄、道隆の子で甥にあたる伊周(これちか)です。しかし、道長の姉の東三条院詮子(せんし)が、一条天皇の生母であるのが決め手となりました。
詮子の強力な口添えにより、道長は争いに勝ち、関白に準ずる内覧(ないらん)という天皇の補佐役となり、さらに右大臣に昇進。翌年には左大臣となりました。

一方、伊周は、996年、藤原為光の四女のもとに通う花山法皇を、自分の思い人である三女のもとに通っていると勘違いし、弟の隆家とともに矢を射かけてしまいます。
この事件をきっかけに、伊周は出世街道からはずれていきます。

道長は、4人の娘を一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇の后とし、1016年に摂政、1017年に太政大臣となり、権勢を振るいました。
公卿、藤原実資の『小右記』には、藤原道長が詠んだ歌が記されています。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば

ただ、この年の夏ごろから、道長は病に苦しむことが多くなりました。ぜいたくのし過ぎによる糖尿病だったようですが、迷信深い当時のこと、道長にはさまざまな怨霊がとりついていると噂されるようになります。

道長の病状はさらに悪化し、出家して、土御門殿の東に御堂を立て、法成寺阿弥陀堂を完成させ、来世の幸福を望むようになりました。
余談ですが、道長は「御堂関白」とも呼ばれました。その名はここから来ています。ただし、関白になったことはありません。

1027年12月、道長は、金色に輝く6体の阿弥陀像が並び、大勢の僧侶の読経の声が響く法成寺阿弥陀堂で、62歳で世を去りました。儀式は、権力者の最期にふさわしい、壮麗なものでした。


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