京都の七野

野原のべにしじみ

平安京の昔、京には洛北七野と呼ばれる野がありました。内野、北野、平野、上野、紫野、蓮台野、〆野(しめの)の7つです。 内野は平安京の大内裏であり、千本丸太町付の内野児童公園に大極殿跡の碑が立っています(ただし、京都市が石碑を立てたのは、1895年。 最近の調査では、大極殿は千本丸太町の交差点付近にあったと考えられています)。

北野は北野天満宮のあたりで、昔はこの地を流れる川の水が大内裏の用水として使われていました。 平野は平野神社のあたりです。
紫野は大徳寺のあたりで、桓武天皇が平安遷都の翌年に狩りをした地でもあります。美しい名のゆえか、和歌にも多く詠まれています。

これらの野はどれも貴族の狩猟場であり、野草を摘んで楽しむ場所でした。しばしば出かけたらしく、 清少納言は、中宮(定子)の内裏としてホトトギスの声を聞きに出かけての帰り、都の北側の上東門(土御門/つちみかど)付近で雨に降られて、 「巽御門のように、雨宿りの場所くらい、つくってくれたっていいじゃない」とブーブー言っています。

などかこと御門のようにあらで、この土御門しも、上もなく作りそめけむと、今日こそいとにくけれ(『枕草子』)

「上もなく」というのは、「屋根もなく」というほどの意味です。
なぜ屋根がなかったかと言えば、上東門は都に食料や薪などの物資を運び込むための門であり、威容や美しさより、実用性を優先させて、土門となっていたからです。

では、なぜ平安京の北側が野のままになっていたのかは、よくわかりません。
平城京でも平安京でも、宮城は宮都の北側に寄っています。
宮都のすぐ北はわざと遊び場として残したのか、風水などの理由があったのか、それとも都市開発に失敗したのか…。

私たちにわかるのは、野は貴族たちがアウトドアを楽しむ場所であり、恋を詠うところであり、 遠く離れた野は、ときに屍体を野ざらしにする風葬の地であったということだけです。


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